ゆるパス9





【パンセー24】

人間のありよう。
無常、倦怠、不安。





 人間の一生は、見方によっては、
短く儚いものです。




 日本では、
歴史的に仏教が根付いていたことから、
現代でも「無常」という言葉が浸透しています。


「無常」とは、
「ありとあらゆるものは、常に変化を続け、
変わらないものはない」

という考え方を示します。




 このような無常観は、
(おそらく仏教のこと知らなかった)
パスカルにも共有されています。


特に、
私たち人間は常に、
変わり続けるものなのです。




私たちの自然本性は運動にある。完全な休息は死だ。

『パンセ(上)』断章 641




 ここでの運動というのは、
心臓の鼓動や血液の循環など、
身体の運動という意味もありますが、
社会関係や自分自身の心境などの変化という
意味も含んでいます。


私たちは、
変化しなければ生きていけないのです。




 しかし、運動、つまり、
変化するということは、
いい面も悪い面もあります。


私たちは、
運動をしているときは夢中でやるのですが、
終わると息が上がり、
疲れを感じます。


それと同様に、
変化は、
私たちに人間に疲れ(倦怠)を
感じさせるのです。




倦怠を感じるのは
夢中になっていたことから離れることによる。

『パンセ(上)』断章 79

 


 私たちは、
一生の中で「無常」と「倦怠」を
繰り返しながら生きていくのです。


そして、ふと思うのです。


「自分の一生って、いったい何なのだろうか?」、と。


 

 パスカルはこの「不安」について、
次のように言っています。


少し長いですが、
そのまま引用します。



私の一生のささやかな時間が、
それに先立ちまた引き続く永遠の中に、
「通り過ぎてゆく一夜の客の思い出」のように
呑み込まれるのを眺め、私が占めるささやかな空間、
いや私が見ている空間までもが、私が知らず
私を知らない空間の無限の広がりに吸い込まれるのを眺めるとき、
私は恐れにおそわれ、
自分があそこではなくここにいることに驚き怪しむ。

あそこよりここにいる理由はないのだから。

どうしてあの時より今なのか。

誰が私をここに置いたのか。

誰の命令、誰の導きによって、
この場所とこの時が私に割り当てられたのか。

『パンセ(上)』断章68




 「なぜ自分はここにいるのか」
「なぜ自分は生きているのか」。


人はだれしもこのような人生の問題に直面し、
「不安」に陥るのです。




 確かに、
パスカルの人間観は救いのないように見えます。


しかし、
このようなネガティブな面に
目を背けることなく見ることも
生きる上では、大事なことなのです。




 自分自身を知らなければならない。

そうすれば、
たとえ、真実の発見には役立たないとしても、
少なくとも自分の生き方を整えるのには役立つ。

これほど正しいことはない。

『パンセ(上)』断章72










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